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2016年02月10日

♪ 言葉にできない /  小田和正

小田 和正(おだ かずまさ、1947年9月20日 - )



日本のニューミュージックシンガー、シンガーソングライター、音楽プロデューサー。
元オフコースのリーダーでボーカル。
株式会社ファー・イースト・クラブ (FAR EAST CLUB INC.) 代表取締役社長。
身長172cm。血液型はA型。

1986年に初めてのソロシングル「1985」、初のソロアルバム『K.ODA』を発表。
オフコース時代からソロ活動を始めてはいたが、1989年のオフコース解散以後にソロ活動を本格化。

1991年、フジテレビ月9ドラマ『東京ラブストーリー』の主題歌として制作した楽曲「ラブ・ストーリーは突然に」が、ドラマと見事なコラボレーションを成し、ドラマ・主題歌共に大ヒット。
オフコース時代に叶わなかった、「オリコンシングルチャート第1位」と「シングルミリオンセラー突破」を一挙に成し遂げた。

その後は、ヒットメーカーとしての地位を確立し、楽曲はドラマ・CMなどに積極的に採用され、「伝えたいことがあるんだ」、「キラキラ」、「まっ白」などのヒット曲を生み出している。
また、オフコース時代を含む過去の楽曲を集め、新アレンジで再録音したセルフカヴァー・アルバム『LOOKING BACK』シリーズや『自己ベスト』は、幅広い年代に支持される大ヒットとなった。

1998年7月22日夜、愛車セルシオを自身で運転して事務所・関係者らとの恒例行事「DEATH MATCH」(ゴルフコンペ)開催のゴルフ場へ向かうため、栃木県都賀町の東北自動車道下り線を走行中、自損事故を起こし、全治4週間の重傷を負う。
現場付近は雨が降っており、80キロの速度規制が出されていたところを、約20キロオーバーの100キロ前後で走行しており、スリップしてコントロールを失い、ガードロープに接触した。
その衝撃で後部座席に飛ばされ、後部座席で横たわった形で救出される。
同乗者はいなかった。
幸いにも、後続車による追突や、横転、反対車線への飛び出しといったことがなかったため、一命を取りとめる。
約2週間の入院を経た後奇跡的な回復を見せ、同年9月12日、福岡県にある「海の中道」で行われた、スターダスト・レビューとのジョイントコンサートで、完治していない体だったが歌手活動に復帰した。

2005年にはオリジナルアルバム『そうかな』、2007年にはシングル「こころ」で、それぞれオリコンチャート週間1位を獲得。
とかく過去の楽曲が注目・起用されがちな日本の同世代アーティストの中で、新曲で音楽シーンに存在感を示すことができる貴重な存在となっている。

CMとのタイアップや、他のアーティストへの楽曲提供や、コラボレーションも行うようになった。
また、初めて持ったテレビのレギュラー番組は大変な反響を呼んだ。

♪ 言葉にできない /  小田和正
  

Posted by 蛇足 鈍也 DONYA at 08:57 Comments( 0 ) 日本のフォークシンガー

2016年02月09日

♪ めまい / 小椋佳

小椋 佳(おぐら けい、本名:神田 紘爾(かんだ こうじ)、1944年1月18日 - )



日本のシンガーソングライター、作詞家、作曲家である。

東京都下谷區東黒門町(台東区上野)出身。両親は飲食店を経営。

東京都立上野高等学校、東京大学法学部卒業後、日本勧業銀行(後の第一勧業銀行、現:みずほ銀行)に入行した。
銀行マンとして証券部証券企画次長、浜松支店長、本店財務サービス部長などを歴任する傍らで音楽活動を行ってきた。
またこの間、ノースウェスタン大学留学や、メリルリンチ証券派遣など、米国滞在を経験している。

1971年、歌手デビューした。当初は、フォークソングあるいはニューミュージックに分類されていたが、次第にジャンルを広げていった。

初コンサートは1976年10月7日NHKホール、2度目は1982年1月普門館である。

1993年、銀行を退職すると、音楽活動の一方で母校の東京大学法学部に学士入学。さらに文学部とその大学院でも学び、2000年に修士号を取得した(哲学専攻)。

他の歌手への提供曲も多く、1975年の「シクラメンのかほり」(歌:布施明)は第17回日本レコード大賞などを受賞した。
その他、「俺たちの旅」・「時」・「俺たちの祭」(歌:中村雅俊)、「愛燦燦」(歌:美空ひばり)、「十六夜だより」(歌:三橋美智也)などがある。
作詞のみを担当した曲としては「愛しき日々」(作曲・歌:堀内孝雄)、「山河」(作曲:堀内孝雄、歌:五木ひろし)、「白い一日」(作曲・歌:井上陽水)がある。
作曲のみを担当した曲では「匠」(歌:三橋美智也)がある。
また、アニメーション『銀河英雄伝説』のエンディング曲、校歌・市歌・社歌なども数多く手掛けている。

浜松支店勤務の際、地元の要請に応えて「やら舞歌」を作った。
これは今[いつ?]も浜松まつりなど浜松市のイベントで使われ続けている。
第一勧銀浜松支店の担当取引先であった縁で、2005年には同市の菓子製造会社春華堂のCMソング「うなぎのじゅもん」を作っている。

芸名の「小椋」は、大学3年生の時に法律の勉強で福島県耶麻郡北塩原村の学生村に約2ヶ月間滞在中、周りの住民の姓のほとんどが「小椋」姓であったことにより命名したものである。


長男・神田知秀は小椋のマネジメント会社である株式会社ゴツド・フイールド・エンタープライズの代表取締役である。
次男・神田宏司は、国内でも数少ない琵琶製作者である。俳優の神田利則は甥に当たる。

2014年、生前葬としてNHKホールで4日間連続の歌が重複しない100曲コンサートを行った。

♪ めまい / 小椋佳
  

Posted by 蛇足 鈍也 DONYA at 10:04 Comments( 0 ) 日本のフォークシンガー

2016年02月08日

♪ 踊り子 / 村下孝蔵

村下 孝蔵(むらした こうぞう、1953年2月28日 - 1999年6月24日)



日本のシンガーソングライター。
「初恋」「踊り子」「ゆうこ」「陽だまり」などのヒット曲がある。
熊本県水俣市出身。水俣市立水俣第一小学校、水俣市立水俣第一中学校、鎮西高等学校、日本デザイナー学院広島校インテリアデザイン科卒業。

1979年、知人のライブハウス店主から勧められ、当時のCBSソニー(現在のソニー・ミュージックエンタテインメント)の全国オーディション(第1回CBS・ソニーオーディション)に応募し、グランプリを獲得。
しかしCBSソニーとしては、当時流行っていた山下達郎や南佳孝などのシティポップス系のアーティストを探しており、フォーク系でそれなりに年齢も重ねていた村下の将来性を巡ってはCBSソニー社内でも意見が分かれた。
プロデューサーとして村下の全作品を手がけた須藤晃によると「このオーディションで一番レコードが売れるのは村下孝蔵だ」と断言する者もいれば「フォークはもう終わりだぞ。ラジオスターの時代じゃなくルックスの時代なんだ」と村下のルックスや年齢に難色を示す者もいた。
ただ楽曲や声のよさは誰もが認めるところで、中国放送がバックアップしていたこともあり何とかデビューが決定、1980年、27歳の時、シングル「月あかり」でプロデビューした。
同期合格者にはHOUND DOG、堀江淳、五十嵐浩晃らがいた。プロになると決意した村下は、最高のギターを持っていたいという思いから馴染みの楽器店でマーティンD-45を購入している。
プロとなった後も、テレビ出演はせず、広島を拠点に地道にライブ活動を続ける。
このためプロの歌手になったからと言って、デビュー直後に劇的な変化はなかった。

1981年1月にリリースされた2枚目のシングル「春雨」は、地道なプロモーションを重ねて、チャート最高位58位を記録、およそ3ヵ月半に渡ってチャートにランクイン。
1982年発売の「ゆうこ」は、チャート最高位23位を記録、約7か月半にわたってチャートインした。
この「ゆうこ」のタイトルになっている女性は日本画家・船田玉樹の娘で、村下とこの時期に結婚しており、後にシンガー・ソングライターとなる娘を儲けている(1985年離婚、村下はこの後再婚)。

1983年、30歳にして発表した5枚目のシングル「初恋」は、オリコンチャートで最高3位を記録する大ヒットとなる。
「初恋」は村下がバラードとして作ったものを編曲家の水谷公生がテンポを上げてポップ系に編曲し、村下がそれを受け入れたことで完成をみた楽曲であった。
水谷はかねてから須藤晃に「もうフォークにこだわらなくてもいいんじゃないか」と進言していた。
水谷は村下を、「でっかい人だった。人にゆだねる強さがあった」と評している。
村下の元マネージャー嶋田富士彦によると、村下の楽曲は有線で強く支持され、地方では演歌に似たチャート変動を示した。
嶋田によると、村下の楽曲はフォークテイストでありながらもベンチャーズに由来する「切れ味の良いロック感覚」も持ち合わせていたが、音楽業界の中でもレトロな印象を抱く者の方が多かったという。

「初恋」発売の前後に村下は肝炎を患い、「初恋」がヒットしてもテレビ番組にはほとんど出演できなかった。
また、肝炎が原因で広島と東京の往復が出来なくなり、1984年末に生活の拠点を東京に移した。
同年秋から全国ツアーを開始したが翌1985年に再び体調が悪化し、入退院を繰り返した。
この時期に、広島から定年退職したばかりの父親も東京で暮らし始めた。
1987年に全国ツアーを再開。この年に催した七夕コンサートは毎年の恒例行事となった。
1988年、神奈川県川崎市のCLUB CITTA'で行われたベンチャーズのライブにゲストとして出演。
ベンチャーズと一緒に演奏するという夢を叶えた。

1999年6月20日、駒込のスタジオでコンサートのリハーサル中に突然「気分が悪い」と体調不良を訴え、当初は救急車も呼ばずスタッフ付添のもと自力で病院を訪れていた。
診察で「高血圧性脳内出血」と判明した直後、意識不明の昏睡状態に陥り、僅か4日後の6月24日に死去。46歳没。
葬儀は6月26日に営まれた。
夫人の希望により、出棺の際には村下が生前最も気に入っていた楽曲「ロマンスカー」がかけられた。
7月3日には東京の渋谷公会堂でお別れ会が、8月8日には広島市内の寺院において音楽葬が営まれた。
戒名は「乾闥院法孝日藏清居士」、墓所は茨城県稲敷郡茎崎町(現・つくば市)の筑波茎崎霊園にある。

♪ 踊り子 / 村下孝蔵
  

Posted by 蛇足 鈍也 DONYA at 18:17 Comments( 0 ) 日本のフォークシンガー