2016年02月08日
♪ 踊り子 / 村下孝蔵
村下 孝蔵(むらした こうぞう、1953年2月28日 - 1999年6月24日)
日本のシンガーソングライター。
「初恋」「踊り子」「ゆうこ」「陽だまり」などのヒット曲がある。
熊本県水俣市出身。水俣市立水俣第一小学校、水俣市立水俣第一中学校、鎮西高等学校、日本デザイナー学院広島校インテリアデザイン科卒業。
1979年、知人のライブハウス店主から勧められ、当時のCBSソニー(現在のソニー・ミュージックエンタテインメント)の全国オーディション(第1回CBS・ソニーオーディション)に応募し、グランプリを獲得。
しかしCBSソニーとしては、当時流行っていた山下達郎や南佳孝などのシティポップス系のアーティストを探しており、フォーク系でそれなりに年齢も重ねていた村下の将来性を巡ってはCBSソニー社内でも意見が分かれた。
プロデューサーとして村下の全作品を手がけた須藤晃によると「このオーディションで一番レコードが売れるのは村下孝蔵だ」と断言する者もいれば「フォークはもう終わりだぞ。ラジオスターの時代じゃなくルックスの時代なんだ」と村下のルックスや年齢に難色を示す者もいた。
ただ楽曲や声のよさは誰もが認めるところで、中国放送がバックアップしていたこともあり何とかデビューが決定、1980年、27歳の時、シングル「月あかり」でプロデビューした。
同期合格者にはHOUND DOG、堀江淳、五十嵐浩晃らがいた。プロになると決意した村下は、最高のギターを持っていたいという思いから馴染みの楽器店でマーティンD-45を購入している。
プロとなった後も、テレビ出演はせず、広島を拠点に地道にライブ活動を続ける。
このためプロの歌手になったからと言って、デビュー直後に劇的な変化はなかった。
1981年1月にリリースされた2枚目のシングル「春雨」は、地道なプロモーションを重ねて、チャート最高位58位を記録、およそ3ヵ月半に渡ってチャートにランクイン。
1982年発売の「ゆうこ」は、チャート最高位23位を記録、約7か月半にわたってチャートインした。
この「ゆうこ」のタイトルになっている女性は日本画家・船田玉樹の娘で、村下とこの時期に結婚しており、後にシンガー・ソングライターとなる娘を儲けている(1985年離婚、村下はこの後再婚)。
1983年、30歳にして発表した5枚目のシングル「初恋」は、オリコンチャートで最高3位を記録する大ヒットとなる。
「初恋」は村下がバラードとして作ったものを編曲家の水谷公生がテンポを上げてポップ系に編曲し、村下がそれを受け入れたことで完成をみた楽曲であった。
水谷はかねてから須藤晃に「もうフォークにこだわらなくてもいいんじゃないか」と進言していた。
水谷は村下を、「でっかい人だった。人にゆだねる強さがあった」と評している。
村下の元マネージャー嶋田富士彦によると、村下の楽曲は有線で強く支持され、地方では演歌に似たチャート変動を示した。
嶋田によると、村下の楽曲はフォークテイストでありながらもベンチャーズに由来する「切れ味の良いロック感覚」も持ち合わせていたが、音楽業界の中でもレトロな印象を抱く者の方が多かったという。
「初恋」発売の前後に村下は肝炎を患い、「初恋」がヒットしてもテレビ番組にはほとんど出演できなかった。
また、肝炎が原因で広島と東京の往復が出来なくなり、1984年末に生活の拠点を東京に移した。
同年秋から全国ツアーを開始したが翌1985年に再び体調が悪化し、入退院を繰り返した。
この時期に、広島から定年退職したばかりの父親も東京で暮らし始めた。
1987年に全国ツアーを再開。この年に催した七夕コンサートは毎年の恒例行事となった。
1988年、神奈川県川崎市のCLUB CITTA'で行われたベンチャーズのライブにゲストとして出演。
ベンチャーズと一緒に演奏するという夢を叶えた。
1999年6月20日、駒込のスタジオでコンサートのリハーサル中に突然「気分が悪い」と体調不良を訴え、当初は救急車も呼ばずスタッフ付添のもと自力で病院を訪れていた。
診察で「高血圧性脳内出血」と判明した直後、意識不明の昏睡状態に陥り、僅か4日後の6月24日に死去。46歳没。
葬儀は6月26日に営まれた。
夫人の希望により、出棺の際には村下が生前最も気に入っていた楽曲「ロマンスカー」がかけられた。
7月3日には東京の渋谷公会堂でお別れ会が、8月8日には広島市内の寺院において音楽葬が営まれた。
戒名は「乾闥院法孝日藏清居士」、墓所は茨城県稲敷郡茎崎町(現・つくば市)の筑波茎崎霊園にある。
♪ 踊り子 / 村下孝蔵
日本のシンガーソングライター。
「初恋」「踊り子」「ゆうこ」「陽だまり」などのヒット曲がある。
熊本県水俣市出身。水俣市立水俣第一小学校、水俣市立水俣第一中学校、鎮西高等学校、日本デザイナー学院広島校インテリアデザイン科卒業。
1979年、知人のライブハウス店主から勧められ、当時のCBSソニー(現在のソニー・ミュージックエンタテインメント)の全国オーディション(第1回CBS・ソニーオーディション)に応募し、グランプリを獲得。
しかしCBSソニーとしては、当時流行っていた山下達郎や南佳孝などのシティポップス系のアーティストを探しており、フォーク系でそれなりに年齢も重ねていた村下の将来性を巡ってはCBSソニー社内でも意見が分かれた。
プロデューサーとして村下の全作品を手がけた須藤晃によると「このオーディションで一番レコードが売れるのは村下孝蔵だ」と断言する者もいれば「フォークはもう終わりだぞ。ラジオスターの時代じゃなくルックスの時代なんだ」と村下のルックスや年齢に難色を示す者もいた。
ただ楽曲や声のよさは誰もが認めるところで、中国放送がバックアップしていたこともあり何とかデビューが決定、1980年、27歳の時、シングル「月あかり」でプロデビューした。
同期合格者にはHOUND DOG、堀江淳、五十嵐浩晃らがいた。プロになると決意した村下は、最高のギターを持っていたいという思いから馴染みの楽器店でマーティンD-45を購入している。
プロとなった後も、テレビ出演はせず、広島を拠点に地道にライブ活動を続ける。
このためプロの歌手になったからと言って、デビュー直後に劇的な変化はなかった。
1981年1月にリリースされた2枚目のシングル「春雨」は、地道なプロモーションを重ねて、チャート最高位58位を記録、およそ3ヵ月半に渡ってチャートにランクイン。
1982年発売の「ゆうこ」は、チャート最高位23位を記録、約7か月半にわたってチャートインした。
この「ゆうこ」のタイトルになっている女性は日本画家・船田玉樹の娘で、村下とこの時期に結婚しており、後にシンガー・ソングライターとなる娘を儲けている(1985年離婚、村下はこの後再婚)。
1983年、30歳にして発表した5枚目のシングル「初恋」は、オリコンチャートで最高3位を記録する大ヒットとなる。
「初恋」は村下がバラードとして作ったものを編曲家の水谷公生がテンポを上げてポップ系に編曲し、村下がそれを受け入れたことで完成をみた楽曲であった。
水谷はかねてから須藤晃に「もうフォークにこだわらなくてもいいんじゃないか」と進言していた。
水谷は村下を、「でっかい人だった。人にゆだねる強さがあった」と評している。
村下の元マネージャー嶋田富士彦によると、村下の楽曲は有線で強く支持され、地方では演歌に似たチャート変動を示した。
嶋田によると、村下の楽曲はフォークテイストでありながらもベンチャーズに由来する「切れ味の良いロック感覚」も持ち合わせていたが、音楽業界の中でもレトロな印象を抱く者の方が多かったという。
「初恋」発売の前後に村下は肝炎を患い、「初恋」がヒットしてもテレビ番組にはほとんど出演できなかった。
また、肝炎が原因で広島と東京の往復が出来なくなり、1984年末に生活の拠点を東京に移した。
同年秋から全国ツアーを開始したが翌1985年に再び体調が悪化し、入退院を繰り返した。
この時期に、広島から定年退職したばかりの父親も東京で暮らし始めた。
1987年に全国ツアーを再開。この年に催した七夕コンサートは毎年の恒例行事となった。
1988年、神奈川県川崎市のCLUB CITTA'で行われたベンチャーズのライブにゲストとして出演。
ベンチャーズと一緒に演奏するという夢を叶えた。
1999年6月20日、駒込のスタジオでコンサートのリハーサル中に突然「気分が悪い」と体調不良を訴え、当初は救急車も呼ばずスタッフ付添のもと自力で病院を訪れていた。
診察で「高血圧性脳内出血」と判明した直後、意識不明の昏睡状態に陥り、僅か4日後の6月24日に死去。46歳没。
葬儀は6月26日に営まれた。
夫人の希望により、出棺の際には村下が生前最も気に入っていた楽曲「ロマンスカー」がかけられた。
7月3日には東京の渋谷公会堂でお別れ会が、8月8日には広島市内の寺院において音楽葬が営まれた。
戒名は「乾闥院法孝日藏清居士」、墓所は茨城県稲敷郡茎崎町(現・つくば市)の筑波茎崎霊園にある。
♪ 踊り子 / 村下孝蔵
Posted by 蛇足 鈍也 DONYA at 18:17│Comments(0)
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